「令和おじさん」だの「世襲でない、たたき上げの首相」だの「パンケーキが好物」だのという、全く情けないTVなど主要メディアの振りまく幻想のせいか、菅新政権は安倍政権をしのぐ高支持率でスタートしたが、その内実は本人も明言しているように「アベ政治の継承」であり、安倍政権の「戦争のできる国造り」をそのど真ん中で官房長官として推進してきたのが、菅首相本人だ。

その意味で、菅政権というのは「安倍首相なきアベ政治」であり、むしろ「アベ政治の真打登場」という方が正確な捉え方だろう。TVなどがふりまく「おとぎ話」に騙されてはいけない。

ただ、本質というものは長くは隠せないものだ。せっかく高支持率でスタートしたのに、早速「学術会議会員の任命拒否問題」で、政権の姿勢に対する抗議の声が盛り上がっている。Change.orgのネット署名「 菅首相に日本学術会議会員任命拒否の撤回を求めます!」は本日、署名を締め切ったが、14万人を超える署名を集めた。

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この記事では、今回の任命拒否問題の、法的な問題点について少し詳細にふれておきたい。学術会議会員は参議院と良く似ているが、任期が3年で、3年毎に半数を入れ替える、ということになっている。会員をどのように選び、任命するかについては、学術会議法の第17条に明記されている。

(第17条) 日本学術会議は、規則で定めるところにより、優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考し、内閣府令で定めるところにより、内閣総理大臣に推薦するものとする。

もし政府がこの選考基準に照らして、任命を拒否した6名が「不適切」と判断したというなら、その根拠を明確に説明する必要がある。もしも拒否の正当な根拠を説明できないならば、今回の政府の行為は、この学術会議法に違反することになる。

また、今回の任命拒否は、これまでの政府の公式見解にも反している。現在の「学術会議が推薦し、首相が任命する」という方法になったのは故中曽根元首相のときだが、そのときの国会答弁で、中曽根元首相は「政府が行うのは形式的任命にすぎない、推薦されたものを拒否することはない」と明言している。

この政府の公式見解を覆すのなら、政府はその理由を明確に説明するべきだし、国会でも議論して、法解釈を変えた理由を説明するべきだろう。国会での議論もなく、政府が勝手に法律の解釈を変えるということは(安倍政権では、このような恣意的な法解釈の変更が常とう手段になっていたのだが)、法律にとって重要な「法の安定性」が崩され、日本は法治国家ではない、ということになってしまう。

「法的安定性」は要するに「時の政権によって法解釈が変わることはない(法律は政権によらず、一貫している)」ということを保障するもので、法治国家と胸をはって言えるためには、大変に重要なことである。法治国家においては政権の権力行使の権限はあくまでも法律の制限内で行われなくてはならず、したがって政権の意向によって既存の法律の解釈が異なり、「前の政権では法律違反でなかったが、今度の政権では法律違反になる」といったことは、決してあってはならないのである。もし、それを変えたいならば、唯一の立法機関である国会において、法そのものを改正しなければならない。

今回、任命を拒否した6人について、何故その6人を拒否したのかについて、政府は説明を拒んでいるが、その理由は明らかだ。拒否された6人はすべて、秘密保護法や共謀罪、戦争法といった安倍政権の「戦争の出来る国造り」のための戦時立法に対して、反対の声を上げてきた人たちだからだ。

時の政府の政策に反対するものは、このような人事的な圧力を加えて黙らせる、こんなことを許したら、日本は本当にファシズムの国家になってしまうだろう。学者が政府の弾圧を恐れて、全員が政府の言う通りのことしか言わない社会になったら、これは本当に恐ろしいことだ。

問題の渦中にある日本学術会議は、前の戦争に学者が協力してしまった、という反省から、二度と学者が戦争に協力することがないよう、政府と独立した組織として、学問的立場から政策提言を行うために設立された、という歴史がある。

その歴史的な経緯から学術会議は、「軍事研究には協力しない」という姿勢で一貫してきた。「戦争の出来る国造り」を進めたい、武器の輸出もしたい、科学者には軍事研究をやってもらいたい、という自民党政権にとっては「目の敵」であり、今回の問題は、自民党政権がこの学術会議の「軍事研究反対」の立場に反発して、圧力をかけてきた、ということだろう。政権による、このような露骨な弾圧を、決して許してはならない。

時の政府の政策がどうであれ、それを批判したり反対する意見も自由に言える、抗議行動も自由にできる、それが民主主義国家としての最低条件だ。反対意見があってこその民主主義であり、反対意見の存在しない社会は「独裁国家」だろう。

何故、民主主義国家では、そのような「言論の自由」や「学問の自由」が保障されているのか?それは、社会にとって「正しいこと」というのは時代によって変わっていくものであり、現時点で政府の政策に反対する考え方が、少し時代が変わると当たり前で、それこそが正しい政策だ、ということになる、そういうことは歴史上、いくらでもあるからだ。

むしろ、人間の社会というものは、そういった思想と学問の自由のおかげで、これまで発展してきた、とも言える。多様な意見の自由な交換、議論が出来る環境なくして、学問の発展もないのである。学問的な新しい知見は、そのような自由闊達な環境から生まれるのである。自由な思想や言論が押さえつけられている社会は、長期的には発展ができず、結局は滅びていく、ということを、歴史が証明している。

さらに、日本の場合は、このような言論弾圧、学問への弾圧から、無謀な戦争に突き進んでいった、という歴史があることを忘れてはならない。言論の自由、学問の自由が保障されない社会では、政府の意向によって容易に戦争へと国民を駆り立てることができる。戦前の日本は、まさにそのように、言論の自由、学問の自由が侵害され、国民の自由な意見や思想、学問が制限されるなかで、無謀な戦争に突き進んでいったのだ。

この学術会議任命問題は、今後の日本社会がどうなっていくのかに関わる、大変に重要な問題だ。日本を再び「戦争のできる国」にしないために、今回の学術会議任命問題について、政府を徹底的に追及していかなくてはならない。

(2020.10.12)